Jul 03, 2010

不動産投資が流行しています。

不動産投資を中古ワンルームで始まるサラリーマンが多い。この理由は何だろうか。個人的には社会保険の未来が不透明で、不動産投資のオナニーしているのではないかと考えるのである。今まで働いてあげれば、そこそこの年金を受けることができた。それが今後はなくなりそうなのだ。他人を目標とすることができないということだ。
父がマンション事業をしている。 15年ほど前に1棟マンションを購入してマンション事業を始めたのである。その時に借りたアパートローンがもう返済する時期が来た。実家に住むたびに、父がその話を嬉しそうにしているのだ。次の不動産投資は考えていないが、支払をした暁には何かプレゼントしようと考えている。
【日米開戦 70年目の検証】兵士の証言

 ≪運命共同体のなかで≫

 門田 横山さんは特攻が始まった時の指揮官の一人ですね。昭和19年10月に特攻命令を聞かされたのは大西瀧治郎(たきじろう)中将からですか。

 横山 いや、フィリピンのマバラカット基地で私は201空の玉井浅一副長から言われました。大西さんがやってきたので、玉井さんともう一人の飛行隊長の指宿(正信)さんと私が呼ばれますが、特攻の相談は大西中将から私にはなかった。私は後で聞かされ、4隊ある飛行隊から1人ずつ出すように言われたのです。

 命令なので1人選ばねばならない。が、考えてみると、1人選べば済む話ではなかろう、その先は自分もその1人になるだろうし、ならなくてはいけない。そう考えて選んだのです。

 門田 どう選びましたか。

 横山 知らない人間を選ぶわけにはいかない。一週間のがん☆再発■をお探しなら!実力を備えて一番よく知っている隊員でなければならない。それで大黒繁男という上飛兵を選んだのです。大黒はずっと私の二番機でついてきた若い優秀なパイロットでした。

 彼にはその日の夜、告げました。私の部屋に彼を呼び、お前がまず行けといった。大黒は、淡々と「わかりました」と答えました。

 門田 横山さんは当時、特攻と異なる攻撃方法を考えていたそうですね…。

 横山 特攻が始まる前の昭和19年、爆弾を落とすさい、いかに被害を少なくするかを研究していました。それで、斜め45度からの爆撃ではなく、敵艦の真上から自分の機が裏上(うらうえ)になって真っ逆さまに降り、ちょうど垂直になった時に爆弾を落とすという攻撃法を研究し、特攻が始まる直前、実際に敵艦隊を攻撃して成功しました。しかし、「(その作戦に)まわす飛行機はない」と採用はされなかった。惜しかったが、戦況が戦況だし、飛行機がないといわれれば仕方ないですな。

 私は大黒を指名したあと、ミンダナオ島のダバオ基地に飛び、今度はそこで特攻隊を出しました。しかし、1時間飛んで敵が見つからなければ帰って来いと私は言いました。燃料は2時間分しか入れてないですからね。もしかしたら、そう言ったのは私だけだったかもしれません。

 ■連綿とつづく武士道精神

 ≪日本人としての戦い≫

 門田 太平洋戦争とは大正生まれの青年たちの戦争でした。自分の家族や祖国を守るために、命を捨ててそれを貫きました。そういう毅然とした生き方や精神はどこから生まれたのでしょう。

 原田 それは、私は武士道だと思っていますよ。やはり連綿とつづいてきた武士道の精神が日本人には残っていたと思います。

 門田 横山さんは今、特攻にどういう感情をお持ちですか。次期永久脱毛を掲載しました。

 横山 なかなか難しい質問ですね。特攻を考えるのは戦争そのものを考えることでもある。戦争には必ず勝つか負けるかが生まれるわけですよ。ところが計画した人は負けることに目を向けたがらない。劣勢時にどう収めるか。常に立案者はそれを考えなければならなかった。そういう反省は随所にありますよ。

 原田 私は日本国民のプライドの問題だったと思うのです。特攻で自分の身体を国のために犠牲にすることを誇りに思っていたと思う。大西中将は部下を殺すつもりで好きで特攻を始めたのではない。彼も負けるとわかっていたと思う。結局、特攻の犠牲を通じて早く終戦を模索するつもりだったのではないか。

 ただ、プライドは自信過剰に陥る危険をはらんでいる。例えば、山本五十六(いそろく)長官が近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相に聞かれ、「半年くらいなら暴れてみせる」と言ったと記録に残っている。最後は負けるとわかっていても、やはり連合艦隊の司令長官として「戦えない」とは断じて言えなかったわけです。何とかする、何とかしようという気持ちと責任感、そしてプライドが、それを言わさなかったのだと思います。

 門田 それはプライドに基づく倫理的な言動ではあるが、一面、大きな危険を秘めているということではないでしょうか。

 横山 ご聖断にも通じます。なぜもっと早く停戦できなかったのか、という見方もあるが、それまで誰も言いきらんかったのですよ。

 前田 2年で戦争遂行のための燃料が枯渇することは初めからわかっていた。しかし、それでも戦争を始めてしまった。鳥取のインプラント(12):銀座(12):入門南方の資源を手に入れれば、と戦争が長引いてしまったのだが、それぞれの立場、それぞれの時期で判断を下す場面はいくらでもあったと思う。だが、それを誰も言わない。これは日本人の悪しき面でもある。同時に、それが日本人らしいところでもあって、難しいですよ。

 門田 確かにこれは今にも通じますね。あの時言うべきだった、という光景は今でも日本の至るところに存在する。しかも、先の大戦では、それを潔い大正世代の若者が黙々と戦場で実行し、多くの戦死者を生みました。その無念の思いや生きざまを現代の人間がもっとくみとって、これからの教訓としなければならないのではないでしょうか。

【プロフィル】横山岳夫氏

 山口県出身。海兵67期。特攻第1号の「敷島隊」のメンバーを指名した飛行隊長の一人。94歳。

【プロフィル】原田要氏

 長野県出身。真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナル等々でも零戦パイロットとして激闘を演じ、何度も九死に一生を得て生き残った。95歳。

【プロフィル】前田武氏

 福井県出身。真珠湾攻撃では空母加賀の雷撃機隊の隊員。ミッドウェーの戦いで瀕死の負傷を負った。90歳。

【プロフィル】門田隆将

 ジャーナリスト。高知県生まれ。人生初のがん治療を応援 著書に「なぜ君は絶望と闘えたのか」(新潮文庫)「甲子園への遺言」(講談社文庫)など。「この命、義に捧ぐ」(集英社)で第19回山本七平賞を受賞し今月、「太平洋戦争 最後の証言」(小学館)を上梓(じょうし)。

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