Feb 17, 2011

母から娘へのプレゼント

私の育った家は貧しかった。生活費の節約は当然のことであって無駄はほとんどなかった。そんなある日、母から娘へのプレゼントが贈られた。オパールリング誕生石だった。私は感激した。宝石を買って暮らすことができない環境になったのだ。母から娘へのプレゼント、母にも記念に残る事件だった。 "毎月の生活費入れてくれてありがとう"と母が言った。
コスプレといつのまにかブムドゥェオあったのですね。いつから人気に火がついたのでしょうか?最初に登場したのは1976年だそうです。その時の衣装を販売する企業が出てくる、アニメの人気がますます広がって行って、コスプレ喫茶やコスプレを公開しているホームページなどで、さらに普及が大幅にだということです。
 ITや電子書籍、エコロジーなどの話題を、分かりやすく解説・考察するブログ『むささびの視線』は、その優しい文体に特徴がある。ITmedia オルタナティブ・ブログ開設以来の人気ブログ筆者の谷川耕一さんも、その文章のように優しい人だった。【聞き手:土肥可名子、鈴木麻紀】

 生まれは北海道の旭川です。4歳のときに東京の世田谷に移ったので記憶はあまりないのですが、印象に残っているのは自分の背より高く積もった雪とアイヌ犬を飼っていたこと。この犬とよく遊んでいました、というより遊ばれていましたね。

 昭和40年代の東京は空き地や小さな河川が残っていて、僕もよく近所の川に入ってザリガニ捕りなどをして遊びました。環境汚染が問題になり始めたころで、川といっても水量が少なくゴミもたくさん投棄されているような状態。ビンのかけらなどが捨てられて危ないものだから、遊んでいるとよく怒られました。この後、東京の川はどんどん埋め立てられていき、自宅近くの川も大分少なくなりました。

 父は転勤族でしたが、基本的には単身赴任してくれたので僕たち家族はほとんど東京住まいでした。一度だけ、僕が小学校6年のときに長崎で暮らしたことがあります。住まいは長崎市の郊外でしたが海も山も近くて、毎日のように釣りに行ったり山に入ったりと自然の中で遊びまくっていました。

 カルチャーショックだったのが遠足。東京だと遠足というと電車やバスを使って行くでしょう。それが長崎では、「明日、遠足」となってもバスの席順を決めることもない。当日学校に行ってみたら、そのまま歩いて近所の山に行くわけです。びっくりしたけれど、これぞ「遠足」だなと。中学2年で東京へ戻りましたが、今でも長崎は大好きです。10月7日に「おくんち」という祭りがあって、この日は僕の誕生日でもあるんです。だから絶対忘れないし、遊びにも行きます。

 動物が好きだったので、子どものころの将来の夢は牧場主。大学受験のころには現実的になって獣医になりたかったのですが、いざなろうと思うと獣医学部がある大学自体がそもそも少ない。私立は医学部並みにお金がかかりそうだし、東京の公立の獣医学部は東大に農工大といずれも難しい。最終的には明治大学の農学部に進みました。

 獣医に近いという意味では畜産コースに進む道もあったのですが、当時は緑や環境が注目され始めたころ。僕もより広い視野で動物や生態系を見てみようと、緑地工学を専攻しました。卒論のテーマは「緑環境」と「虫」。先輩が「鳥」だったのでそれを補完する意味で「虫」を担当しました。虫や緑環境の多様性――いろいろな木が生えている公園は虫の種組成も多様だよ、多様性が高いところの方が自然は豊かだよ、というストーリーの研究をしていました。

 就職はマスコミ希望だったんです。生き物や自然を扱うドキュメンタリーを撮る仕事がしたくて。映像の仕事ならテレビ局かなと思ったのですが、何せ農学部でしょう。情報がまったくないわけです。周囲は造園土木関係の企業に進んだり、公務員や教師になる世界ですから、どういう就職活動をしていいかも分からない。結局、筑波大学の大学院に進むことにし、大学4年のときにはあまり就職活動をせずに、卒論のために公園に虫を取りに行ったりしていました。

 そして2年後。当時の大学院生の就職は引く手あまたで、自分の専門分野であれば研究室の推薦で行けたんですけれど、2年たっても僕はまだドキュメンタリーを撮る仕事がしたかった。なのでテレビ局志望は変わりませんでした。

 ところがテレビ局の面接に行って「ドキュメンタリーを撮りたいです」って言ったら「そんなことはテレビ局に入ってもできないよ」って言われちゃって。今みたいにインターネットで情報収集ができたり、もう少し社会のことを知っていたら、まずは制作会社でアルバイトして……と違うアプローチも考えられたけれど、僕には情報もなければコネもない。何も知らなかったものですから、テレビ番組を作るにはテレビ局に入るしかないと思っちゃったわけです。それでもなんとか2社ほど面接は通りましたが、筆記試験で失敗しました。

 僕、どうも本番に弱いところがあるみたいで(苦笑)。なぜか普段と違うことをしちゃうんですね。大学受験のときも、普段は1問ずつ解いてはマークシートを塗っていたのに、共通一次に限って全問解いてからマークシートを塗っていった。終わって見直したら見事に一問ずれていて、どこからずれ始めたのかもう分からない。就職試験のときも、初めての英語の辞書持ち込みOKの試験で、馬鹿丁寧に辞書を引いて時間がかかりすぎて、半分も終わらなかったんです。

 テレビ局の試験に失敗して、さぁどうしようかなと。多分、建築、土木のデベロッパー系企業であればまだ研究室推薦で就職できたのでしょうけれど、そっちには行きたくなかったので、就職情報誌をめくって大学院枠のある企業をピックアップして就職活動を始めました。

 当時はIT系企業が院卒採用に積極的だったので、自然とIT系企業を回るようになりました。ある企業の説明会でいきなり、「このなかに筑波大学の谷川さんいらっしゃいますか?」と呼び出されましてね。どうやら優秀なOBがいたらしく「筑波の院生が来たぞ、絶対とれ!」みたいなことになっていたらしいんです(笑)。AI(人工知能)が華やかなりしころで、エンジニアになるつもりはなかったのですが、AIなら面白そうかなと入社を決めました。

 当時のAIは、「人工知能」を作るというのではなく、エキスパートシステムの構築が主流でした。それを作るエンジニアはSEではなくKE(Knowledge Engineer)なんて呼ばれていましたっけ。専門家に話を聞いて、一般化したノウハウをルールにかみ砕いて、それを取り込んだシステムを構築する。精密機械メーカーの仕事をしていたんですが、新人の若造にその道うん十年のベテラン技術者の方々がさまざまなことを丁寧に教えてくれた。エキスパートシステムを構築していた期間は、極めて有意義な時間でしたね。それと、仕事とは別に、社会人とは何たるかを教えられたのもこのころです。先輩諸氏にはずいぶんとしごかれました。どんなに飲んでも翌日の朝は会社に来い、とにかく来ればあとはトイレで寝ててもいいとか。

 そのような環境で3年ほど勤めたのですが、自分はやっぱりエンジニアじゃないなぁと感じてしまい、やはりメディアに行きたい。そこで、せっかくだから身に着けたコンピュータ知識を生かそうとアスキーに転職しました。

 アスキーでは『UNIX MAGAZINE』という雑誌の編集を担当しました。高度で専門的な内容で、にもかかわらず紙の印刷物に対するこだわりを持っている雑誌でした。顧問に他社で人気小説家を育てた経験あるベテラン編集の方がいて、その方に編集の基礎や編集者としての心得みたいなものすべてを教わりました。とてもいい経験をしたと思います。

 「むささび」の愛称もこのころからです。オートキャンプのメーリングリストに参加していたのですけれど、自己紹介で「むささびが好き」といったら「むさ、むさ」って呼ばれるようになって。当時のハンドルネームは面白かったですよ、大のおっさんが「ねこ」とか「くまち」とか呼び合ったり。「ししゃも」っていう人もいたな、子だくさんだからって(笑)。

 仕事柄どうしても拘束時間は長くなるけれど、23時ころ退社できる日はよく飲みに行きました。校了後にはツーリングやキャンプに行ったりと、忙しい中で時間をやりくりしてプライベートも結構楽しんでいました。バイクは大学に入ってから免許を取り、キャンプは院に進学してから始めたものです。スポーツも好きで、高校時代に始めた軟式テニスは大学進学後も母校に教えに行きました。そのときの後輩がオルタナブロガーの青葉さんです。他にもラグビー観戦にスノーボード。気がつけば多趣味になっていた感じです。スノーボードはカナダで全行程ヘリというツアーに参加したこともあります。ツアー代だけで60万円位かかったかな。

 アスキーで4年ほど勤めたころ、そろそろ違う媒体の仕事がしたいなあと思うようになったのです。そんなときに前職の知り合いが声をかけてくれて、マーケティング担当としてオラクルに転職することになりました。データベースのことはあまりよく知らなかったんですけれど。最初の会社では筑波の院生だから優秀だろう、今回もアスキーだからマーケティングも広告も知ってるよね、と周囲が勝手に誤解してくれちゃって。面白いものですよね。

 オラクル時代はとにかく忙しかった。一時は広告やWebサイト、ショールームからホットラインまで僕の管理下にあったりもしました。初期のころにある製品を初めて日本市場に展開する仕事をしていたのですが、このときは本当に忙しくてストレスで口が開かなくなったこともありました。ちょうどそのときに、会社から「マネジャーに(昇進)」と打診されたのですが、今だってこんなに忙しくいのに、この上さらにマネジャーになったらもっと忙しくなるじゃないかと。「マネジャーが欲しいなら外から連れて来てくれ」と頼んだこともありました。あのときおとなしくマネジャーになっていたら、その後はもう少し出世できたかも知れませんね。それでもイベントで寸劇調のプレゼンをやってみたり、東京ビッグサイトを全館貸し切るような大規模なイベントの事務局で運営を仕切ったりで、仕事は楽しかったですよ。

 起業したのは1999年です。長崎時代の友人から「会社を作りたいから手伝ってくれ」と言われ、東京に家を持っていたのでそこを本社にして僕が社長で会社を興しました。

 当時、日本オラクルの就業規則には「他に雇用されてはならない」とはあるけれど「起業禁止」とは書かれていなかった。それならと会社を辞めずに友人2人と有限会社を立ち上げました。後に、オラクルで副業している人の調査があって、そのとき素直に申し出たのですが、調査の結果同じIT業界の仕事で利益相反になる可能性があるとのことに。それで、代表権はだめよという話になり社長を降りました。しかし、それ以上はとくにおとがめもありませんでした。さすがに今でもこんなことが通用するとは思いませんが。

 有限会社の資本金300万円は、経営者3人で1人100万円ずつ。その100万円を作るために、上場目前でしたが持っていた日本オラクルの株を売りました。その後の上場による株価の上昇を考えるとちょっともったいなかった? いや、株ではもうけられなかったけれど、そのお金が現在に生きているので、これでよかったのだと思います。この年は会社を作り、家を立て替え結婚までしたので、もうバタバタな1年でした。

 昨年から電子書籍の制作を始めました。もともと紙の印刷物や本が好きだったので、そういう仕事ができれば楽しいなと思っていたんです。オルタナブロガーの佐々木さんと話をしているうちに、紙の出版社の敷居は高いけれど電子書籍であれば参入できるんじゃないかと。電子なら書籍といってもWeb系のテクノロジーを使っているわけですし。

 たまたま「JazzJapan」という雑誌の電子化の相談を持ちかけられたこともあって、昨年9月に佐々木さんの会社と電子書籍制作の企画・制作、コンサルティング業務を正式にスタートさせました。電子書籍用アプリの開発も自社で手掛けています。今年の1月にはオラクルの社員犬「キャンディ」の広報誌を作りました。企業が使うメディアの1つとしても、電子書籍の可能性はあると思います。

 今は売れる本というよりも、電子書籍らしい書籍――マルチメディア的な要素が価値になるもの、文字と写真以外にも動画があるとか、Twitterを連動させるとか、そういう電子書籍のメリットが、書籍の文脈のなかで生きてくるようなものを作りたいと思っています。

 電子書籍を作れば何でも売れるわけではない。売れるものが売れる、当たり前ですがコンテンツ次第です。今はまだWebサイトとの境界もあいまいな部分があるし、読む側のスタイルの問題もある。まだまだ過渡期の電子書籍ですが、これからフォーマットも端末もどんどんよくなっていくでしょうし、そのためには今から手掛けておきたいのです。

 起業してから十数年、オラクルを辞めて自分の会社一本にしてから6年位経ちます。それなりに順調に来たとは思いますが、そろそろ情報を出す側の人間になりたいですね。独立するとどうしても大手の下請けが仕事のメインになってしまう。自分たちが発信元になって自分たちが企画したものを世に出したいです。

 アイデアはいろいろあるんですよ。例えばバイク。僕がキュレータをしているオートバイのOneTopiには今フォロワーが1000人位いるので、彼らが所有しているバイクについてレビューしてもらって本にする。自分のバイクについてはいいことも悪いことも熱く語る連中ですから、これにまさるバイクカタログはないわけです。それを販売して制作に関する経費を引いた残りを育英会に寄付するとか。僕らはこれをソーシャル出版と名付けているんですが、そういう考え方があってもいいんじゃないかな。もうからないかもしれませんけどね(笑)
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